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伊万里焼

伊万里焼はマイセンにも大きな影響を与えて、ドルフト陶器にも大きな影響を与えました。あるテレビ番組で古伊万里の鑑定で本物の場合はものすごい高額な金額が付けられていて驚くことがしばしばあります。今でも日本だけではなく海外でもコレクターがいる伊万里焼きですが、クィーンのフレディ・マーキュリーは伊万里焼のコレクターでした。

伊万里焼は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現:佐賀県と長崎県)で生産された磁器の総称ですが、製品の積み出し港が伊万里だったことから「伊万里焼」と呼ばれました。

中国では紀元前から原初的な磁器が製造されていました。ヨーロッパでは「ポートランドの壺」が作られたのは西暦25年ごろですが、中国では後漢時代です。後漢時代は西暦25年~220年だったので、中国ではヨーロッパと同じく本格的な磁器が焼かれていました。

日本ではどうだったのかというと、中世までのやきものは陶器で、磁器は輸入品に頼っていました。日本で初めて国産磁器の製造が開始されたのは17世紀で、有田(現:佐賀県有田町)でした。

伊万里焼が文献上に初めて出てくるのは1638年(寛永15年)の松江重頼の『毛吹草』です。この書には「唐津今利の焼物」となっていて、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指して書かれていると考えられています。有田、波佐見といった肥前の磁器は、近世には主な積み出し港の名前から「伊万里焼」と呼ばれることになりました。「今利」や「今里」とも書かれることが多くありました。

有田地区の製品を「有田焼」伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになったのは、近代以降のことです。船に変わって鉄道が輸送の主力となってからのことです。研究者はいわゆる「伊万里焼」を「肥前磁器」と呼ぶことも多くなっています。

伊万里焼の歴史

佐賀藩(鍋島藩)藩祖の鍋島直茂は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬申倭乱)に参加しました。その朝鮮出兵のときに、朝鮮から多くの陶工を日本へ連行しました。それらの陶工によって有田で磁器製造が始まりました。

通説によると、朝鮮出身の李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料の磁土を発見して、1616年(元和2年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされています。古文書によって、金ヶ江三兵衛が実在の人物ということは確認されていますが、1616年(元和2年)に初めて磁器を焼造したということは文書などから確認することはできません。

九州陶磁文化館の大橋康二たちの窯跡調査によると、磁器が最初に焼造されたのは有田東部の天狗谷窯ではなく、有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯などの窯になっていて、消費地での発掘調査などから推定すると、磁器製造の始まったのは1610年代というのが定説になっています。

※文禄・慶長の役・・・1592年~1598年

初期伊万里焼

1610年代~1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称しています。この初期伊万里の作品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器がメインになっていて、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色になっています。

初期の磁器は、砂目積みという技法が使われています。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、シナ磁器(中国)にはみることはない朝鮮独特の技法になっています。この朝鮮独特の技法が使われていたことから、朝鮮から渡来した陶工が生産に携わったことが明らかになっています。

その一方で、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁になっていたので、ゴバルトを主原料とする呉須(ごす)で文様を描く染付の技法や意匠はシナ由来(シナ出身の陶工作)と考えられています。

1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が開始されました。そして国内向けの大皿といった色絵磁器製品が生産されていきました。これらは、加賀(石川県)の九谷が産地と長年考えられていたことから「古九谷」と称されることになり、現代の陶磁史では「古九谷様式」となっています。

そして1640年頃から色絵磁器の生産が開始されたことと、鍋島藩が将軍家や諸大名といった贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始しました。この鍋島藩の窯製品を現代は「鍋島様式」または「鍋島焼」と呼んでいます。

輸出へ

1644年にシナ(中国)では、明王朝が滅亡します。そして1656年に清により遷界令が発せられました。商船の航行が禁止されて、シナ陶磁の輸出が一時途絶えることになりました。このため、それまでシナ磁器を買い付けていたヨーロッパ諸国が日本へ磁器を注文するようになり、オランダ東インド会社から大量の注文が舞い込んできました。シナ磁器の輸出が再開されてから、東南アジア方面の市場はシナ磁器に奪還されましたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続されていきました。

1670年代には、素地や釉薬が改良されていき、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られるようになりました。この濁手の素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称しています。このデザインモチーフををマイセンはシリーズ化しています。

1690年代には染付の素地に赤や金といった色を多用した絵付を施した製品が作られるようになりました。これを「古伊万里金襴手」いって、この様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となりました。

※遷界令(せんかれい)・・・清王朝が発令。1661年には住民の強制移住政策まで及んだ。

初期伊万里焼重要文化財

  • 染付花卉文徳利・・・箱根美術館
  • 染付山水図大鉢・・・大和文華館

初期のデルフト陶器

オランダでスズ釉薬で絵付けされた陶器を最初に制作したのは、1512年に制作したアントウェルペンのグイド・ダ・サヴィーノです。その後は絵付けされた陶器の制作がオランダ南部からオランダ北部へと広まっていったのは1560年代のことだと考えられています。

1570年代にはミデルブルフやハールレムでは1570年代、1580年代にアムステルダムというように、陶器の製造が始まりました。優れた陶器の多くはデルフトで生産されていて、ゴーダ、ロッテルダム、アムステルダム、ドルトレヒトといった都市ではシンプルな普段使いの陶器が生産されていました。

オランダでスズ釉陶器の生産がもっとも盛んだったのは、1640年から1740年のことです。1640年ごろから、個人のモノグラムや工房の意匠に、デルフト陶器が使用されるようになっていました。画家だけではなく、絵付けを行う陶芸職人も参加を義務付けられていた芸術家ギルドの聖ルカ組合には、1610年から1640年にかけて10名の陶芸職人が、1651年から1660年にかけて9名の陶芸職人が、それぞれマスターとして登録されています。

大爆発

1654年にデルフトで弾薬庫で保管されていた火薬が大爆発を起こして、多数のワイナリーといった醸造所が甚大な被害を被ることになりました。この大爆発によってデルフトの醸造産業は衰退することになり、広い醸造所跡地を広い工房が必要だった陶芸職人が買い取ることになりました。買い取った陶芸職人のなかには「二つの大ジョッキ」「若いムーア人の頭」「三つの鈴」という、以前の醸造所の屋号をそのまま使用し続けた職人たちもいました。

炭酸カルシウムが豊富に含まれた泥灰土を使用することで、オランダの陶芸技術は進歩を見せることになりました。デルフト陶器に使用された粘土は、地元産、トゥルネー産、そしてラインラント産の三箇所の粘土を混ぜ合わせたものでした。

それまでの陶器は絵付けされて、透明の釉薬がかけられるだけでしたが、1615年ごろから白色のスズ釉薬で全面がうわがけされるようになりました。このことが焼成された陶器表面に深みを与えることになって、さらに青の絵付けの発色を鮮明にすることへとなり、磁器のような陶器の制作を可能になりました。

絵付けの発展

オランダ黄金時代といえば、「オランダ東インド会社」です。この東インド会社によって、17世紀初頭の中国磁器がオランダに大量に輸入されてることになりました。この中国磁器がオランダにもたらされたことによって、中国磁器の優れた品質と精密な絵付けが、デルフトの陶器職人にも大きな影響を与えることになりました。

中国磁器が輸入された開始当初は、ものすごい富裕層しか中国磁器を入手することはできませんでした。オランダの陶器職人たちはすぐに中国磁器の模倣品制作を始めたわけではありませんでしたが、明の万暦帝が1620年に死去したことで、中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶えてしまうと、中国磁器の模倣品の制作をするようになりました。1630年から18世紀半ばまでのデルフト陶器には、ヨーロッパで発展したデザインと、中国磁器独特のデザインの影響を見ることができます。1700年ごろには、3回の低温焼成の工程が必要になるスズ釉薬の上にエナメル顔料を用いた絵付けをする工房が出てきました。

デルフト陶器には、家庭で普段使用する装飾のほとんどないものもあれば、美術品と呼ぶにふさわしい意匠を凝らしたものといった、いろいろな種類の陶器が制作されていました。「カストステル」と呼ばれる壺のセットは多くの工房で制作されています。装飾画が描かれた絵皿も多く制作されていて、風車、漁船、狩猟、風景、海洋といったオランダを代表するようモチーフが描かれた絵皿が好まれました。そして絵皿のセットには詩歌が書かれていて、会食の場では食後のデザートがこのような絵皿で供されることもありました。デザートを食べ終わると、絵皿に書かれた詩歌を全員で歌うという光景も見ることができました。

デルフト陶器では陶板も大量に制作されているので、制作総枚数は8億枚程度と考えられています。現在のオランダでも、多くの家庭に17世紀から18世紀に制作された陶板が伝えられています。

1750年以降のデルフト陶器は美術品としての価値が下落していると考える専門家もいます。イギリスの陶芸家で、多くの著作があるアラン・カイガー=スミスは、後期のデルフト陶器の多くが「巧妙だが繊弱な絵付けがなされている。風合いにも独創性にも欠けており、18世紀終わりからのデルフト陶器産業は、残念なことに衰退の一途をたどった」としています。

衰退した18世紀

18世紀になると、デルフト陶器はイギリス製磁器に押されて市場を失っていきました。(ウエッジウッドの登場が顕著)

現在のオランダでは、昔から続いている窯元は1594年創業のフリースラント州の王立ティヒラー・マッカム工房と、1653年創業の王立デルフト陶器工房 しか存在していません。

現在の職人の手による青色の絵付けを基調としたデルフト陶器は、デルフトブルー と呼ばれるブランド名で、鑑定書つきで取引されるコレクターズアイテムになっています。白地に青色の装飾絵付けといった、はるかに高額な製品となっている18世紀以前のデルフト陶器を模範としていますが、現在のデルフト陶器には当時使われていたスズ釉薬はほとんど使用されていません。王立ティヒラー・マッカム工房では現在でもスズ釉薬を用いた陶器を生産しています。

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